地域人史-Interview-
高齢者が多く占めるまちに必要なのは元気とモチベーション。湖底に沈んだまち「大夕張」の過去を振り返りながら未来に託す想い
北海道夕張市
今回は高橋 勇治さんに
お話を伺いました
高橋 勇治(たかはし ゆうじ)さん:読売新聞 夕張中央メディアセンター所長
北海道札幌市出身。1959年に札幌から大夕張に移住。1961年からミニコミ紙「夕張よみうり」(98年からは「読売新聞メディアニュース(夕張版)」に改称)を定期的に発行し、夕張市 内の読者に届けている。「その日に起こったニュースをその日の紙面に」をモットーに、地域ニュースを掲載。また、大夕張地区の炭鉱閉山時には足繁く通い取材を通して写真集「大夕張の記憶」を発刊。夕張市在住。
何人も健康であることがやる気を生み出す原動力ですが、年を重ねるごとに体のメンテナンスが必要になると同時に病と付き合いながら生きていくとモチベーション低下の原因にもなってきます。
高齢化率問題が深刻化する北海道夕張市。まちの人口が減って昔を知る人がだんだん少なくなっている中で、今回は地域で新聞配達店を営みながら地域を発信し続ける高橋 勇治さんを訪ねました。
高橋さんがかつて取材で活動されていた大夕張。取材を進める中でそこで得たものが現在に影響を受けていることを突き詰めていくと、まちの将来像を考えさせられる記事の内容になりました。
体を張って新聞を通じて地域を伝える中で、感じる老いと共に事業承継を切実に願う想い
「実は今から2年前に脳梗塞で倒れて毎日薬を飲んでるんだ。朝起きた時は言葉が出なくて電話が来ても全然ダメなんだよ。昼間はいいんだけどね。
俺はね。もう年が88なんだよ。新聞社にうちの主任がいるんだけどね。 経営は厳しいんじゃないかと反対されて今は読売の本社と話し合いしてるんだ」(高橋さん)
読売新聞夕張中央メディアセンターの配達部数は400ほど。スタッフは12人でコアメンバーは2、3人という。
新聞の定期購読のために地域への勧誘が必要であるが、なかなか厳しい状況で総合的経営の維持が困難と言われている。現在は新聞社で高橋さんのこれまでの実績から優遇してもらっているそうだ。
「この地域で新聞配ってるのはもうここだけ。うちの娘も読売新聞にいるんだけどね、大学出てないから社員になれないのさ。そんな経緯もあってセンター引き継ぎを誰もできないんだ。
だからもし俺がばったり逝った場合はね、新聞社直営になるんじゃねぇかって。でも人口が今6,500人くらいまで減ってしまって担い手がいなくてね」(高橋さん)
地域内には他社配達店もあるが、配達時間が遅延したり誤配によるペナルティや拡張のための勧誘による顧客獲得の厳格化で人員が定着しない。
60年以上続けるタウンニュースを読者に伝え続けることができるのはベーシックインカムがあるからこそできるもの
新聞販売店を経営するのは大変だ。今は日々の業務の合間に地元向けの瓦版ニュースの織り込み記事を女性スタッフと2人で行う。取材は高橋さんが基本的に行うスタンス。行けない時はスタッフが行って残したメモを高橋さんが編集する。
そんな高橋さんの取材は市の広報から案件が届いて出向く形だ。ただ、これは高橋さんの読売新聞だけでなく、他社メディアへ一斉に送られる。通常だと「報道メモ」という案件が月当たり10件くらい来るという。この案件でないと収益が得られないそうだ。
今では新聞の紙面広告での収益は皆無に等しいという。このバナー広告は一回あたり3,000円。小さなバナー広告でもあれば収益も変わってくるが一度試験的に導入しても次回は「もういいです」となるらしい。
湖に沈みゆくまちの様子を写真集という成果物にした功績が活動を続ける原動力に
長年新聞を通して地域を伝える高橋さんは、大夕張地域で20歳過ぎから今の道に携わり、その後現地の専売所の所長となってからはずっと一人で突っ走ってきた。
そして、シューパロダム拡張で大夕張地域が水没する前に写真集「ふるさと大夕張の記憶」を当時の価格2,000円で出版。このとき2007年であった。
「この頃は一番馬力あったかな。この時は新聞社が応援してくれたんだ。販売店でこれだけの写真を集めていたことを評価されて社が出資してくれてこの本を1,200部刷って出した。
出た当時はいっぱい申し込みがあってすぐなくなったんだ。復刊するかどうかの話になった時に発刊してもらった印刷会社がなくなってね。別の印刷会社に頼んだけど高くて諦めたんだ。今あの価格じゃ絶対こんなの買えないだろうね」(高橋さん)
その写真集を見返していると一枚一枚に記憶が蘇り一番最後に取材した場所なんだと教えてくれる。現在、大夕張地域にいた人たちは散り散りになり水没した場所は家も何も残っていない。高橋さんはそのときどう動いたのだろうか?
「新聞販売店も閉めることになって俺も職を追われることになるし一旦やめようと思ったんだ。
そしたらね、今この販売店を所有していた物件の家主さんが『俺んとこなんぼか物件持ってるんだけど半額でいいから買ってくれや』って。結果としてここに収まったのさ。ここの店舗に来て約30年経ってんだ」(高橋さん)
大夕張を伝える最後の語り部と言われる存在。人口減の中で訪ねてきてくれる人に託したい想いとは
これまで多くの光景をカメラに収めてきた高橋さん。振り返ってみると大夕張での記憶は心の奥底に沁みついているが現地の記録はそうは残っていないこともあり、この写真集は貴重な宝物だという。
昔の様子を後世に伝えていける人は時の流れとともに消えていく。数少ない当時を知る人は命の砂時計を感じるように「みんな亡くなって行く。だから高橋さんが最後なんじゃないか」と言う。それに対して高橋さんはもう少し生かしてくれと受け答えるというが、何とも切ない。
まちのことを伝える役割を担う人も世代の移り変わりや、増え続ける人口の市外転出でなかなか難しいのも現状。観光と一括りにまちを盛り上げる考えだけでは厳しいのではないだろうか。
一度まちを去って行った人が再び戻ってくることはなかなかないが、昔を懐かしんで高橋さんを訪ねてくる人もいるという。
「時々、元住民でうちの新聞取ってた人が、大夕張での当時の現地写真を持ってきてその場所をバックに写真を撮りたいが場所が分からないと言われるから案内してやるんだ。
ずっと山の方に上がってさ、見下ろす形で『この辺があんたの住んでたとこだよ。水の中に埋まっちゃったけど』ってね」(高橋さん)
昔の原体験は今に残っていても、湖底に沈んだまちは人々の記憶から遠のいていく切なさ
今の現地はもう何もない状態だが、高橋さんの頭の中ではここは何があったのか大体分かるという。ではその中で一番思い出に残っている場所はどこなのだろうか?
「そうだね。この写真集の中にも写っている鹿島常磐町ってまちがあってね。そこに暁橋って吊り橋があって朝配達が終わったらそこに上がって橋を行ったり来たりしながら、良い場所を見つけて写真を撮ったんだ。
今はもうその辺りも家屋等は解体されて水の中に浸かっちゃったけど、あそこに何十年もいたから炭鉱のまちって感じで思い出深いね」(高橋さん)
「もう湖の下だもんね」と話す高橋さんの表情は寂しげだ。水が引くこともあって場所によっては鉄道線の跡や道路・住宅地の区画跡と、かつてのまちの面影が見られるが鹿島常磐町付近は難しい。
元気なうちに活動を成果物として残していく。そうすればきっと人々の記憶の中に存在が刷り込まれる
高橋さんはおもむろに立ち上がり、冊子になった瓦版タウンニュースを取り出して冊子をペラペラめくる。
「この本もね、社が作ってくれたんだ。俺が体が調子悪くなったときに『高橋さん元気なうちになんとかするべ』って本にする形で応援してくれたんだ。僕はそういう面では色々面倒見てもらってるからね」(高橋さん)
そう言うと高橋さんは冊子の間に付箋がついている記事を持ってきた。2019年3月末で廃止になった地元の鉄道駅で簡易委託業務をしていた村上美知子さんの記事だ。発行日が2019年4月11日とある。鉄道がなくなって1週間ほど過ぎた時のものだ。
「このときが村上さんに最後に会った時だね。なんかね、元気なくてね。『誰も来ないし寂しいよ』って言っていたね。
それからしばらくして、ある年の秋から冬の時期にうちのスタッフが拡張業務で自宅を訪ねたんだ。たまっていた新聞に違和感を感じて呼びかけにも応じずおかしいなと思って玄関を開けたら、玄関から見えるところでうつ伏せに倒れて口から何か吐いて意識を失っていたんだ」(高橋さん)
村上さんはそのとき一命は取り留めたものの、体調が戻ることなく今年の2月に息を引き取った。鉄道廃線でメディアへの露出があり、ネット検索でも多くヒットする中で著名人の訃報はその中に埋もれてしまうことが多いが村上さんもそうだ。
キーパーソンが一人、また一人と消えていく。その中で自分自身が生きることで精一杯の世界を打破するには、食べていけるお金を創ること
地域のキーパーソンが一人、また一人と消えていく。夕張市でオウンドメディア「夕張タイムス」を運営していた森 剛史さんのお話も振り返るように高橋さんは話す。森さんとは同業でよく情報交換を行っていたそうだ。
「森さんもガンでなくなったんだ。生前は旧夕張駅にある喫茶店「和(なごみ)」に一緒に行ってよく話したんだけど、『薬飲んでんだけど、俺もう硬いもの食べれないんだ』って言ってて。だんだん体も細くなっていってね。
亡くなった後、弟さんは『僕なんて記事なんて書くセンスないしこの会社は兄の代で終わりです』って挨拶してた」(高橋さん)
高橋さんはまちの人口急減が進む中でどんなことを考えているのだろうか。森さんのようなまちを伝えられる人が後を継いでなかなか表に出ないまちの様子や話題を届ける存在は必要だと高橋さんは訴える。しかし高齢者が増えて転入者よりも転出者が増える現状にしょうがないと諦めがちだ。
まちの商店や事業者からの広告収入もほとんどなくなってしまった。「高橋さん悪いけど広告どころでないわ」と自分のところを守るためにみんな精一杯なのだという。
高橋さんの発行するタウンニュースに目を向ける。よく見ると文字部分を切り取って貼り付けているのが分かる。印刷した紙をハサミで切って貼り付ける作業を行っているためだ。
今ではデジタルが主流だが、編集する機械がないためこのような作業を行っている。しかし担い手がいれば新聞社から予算を取って設備投資ができ活力を生み出せるという。
明るい話題を拾い上げてまちに対して地域愛を深めていくことと同時に、好きなまちで仕事を創ることが民力を高める源になる
後世に事業承継のために若い世代に引き継いでほしい。そんな想いを感じるが、担い手を生み出す原動力となる学生が集う高校は南清水沢地区に夕張高校が残るのみで現在の生徒数は20人前後。
卒業後の市内での就職条件はある程度整っているものの、卒業生のほとんどが市外へ出て行ってしまうという。そんな姿を見て高橋さんはこのままでは夕張は消滅してしまうと話す。
「最近はね、人間関係もままならなくてね。高齢者が多く占める地域の中の多くは『ここにいたって墓場行きだ。最後はここでバッタリ逝くべ』と言い、建設的な意見を言う人がいなくなってるね。
拠点複合施設『りすた』もできて数年経ったけど人がいなくてパッとしないんだ。取材で写真を取るのにも人がいないから施設の係員にエキストラのように入ってもらって撮るしかない」(高橋さん)
まちのなかでは当たり前にあるものから可能性を見い出すことはできず魅力を発掘することはできない。高橋さん自身も「僕は脳梗塞で倒れてどうしようもない体を無理して動かしているから死を待ってるような感じでもう冥土行きだよ」という。
何をやるにしても難しいと話す高橋さんの表情は寂しげだ。コロナ禍のタイミングもあるが、元々、まちの商店街でお店を出していた人たちは炭鉱時代は頑張ってお金を稼いでいたので可能性を求めて店を閉めてみんな市外へ出ていってしまうという。
「明るい話はないよ本当に。明るい話を誰かが作ってくれればいいけれど」(高橋さん)
結び-Ending-
炭鉱産業で全盛期を迎え、夕張の栄枯盛衰を見てきた高橋さん。取材、執筆、印刷を1人で担当し、夕張のニュースを伝えることに奔走されてきました。地域のことを伝えるために一番そばで見ていた高橋さんだからこそ、希望を持てなくなる気持ちがとても伝わってきました。
地域を良くしたいと思う人は、高橋さんのような地域を俯瞰して見ている人の話に耳を傾けることが必須ではないでしょうか。夢物語だけでできるものではないのですから。
■企画・著作
佐々木 将人 (Masato Sasaki)
就職を機に兵庫県から北海道に移住した社会人4年目。
人好きで、人×地域をテーマにした記事制作が得意。
【取材データ】
2023年5月6日
【監修・取材協力】
読売新聞夕張中央メディアセンター
・高橋 勇治様
取材にご協力いただきました関係各諸機関のほか、関係各位に厚く御礼申し上げます。