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地域人史-Interview-

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「家にはまるで図書室のように本がたくさんありました」
〜祖父の記憶と探求心が息づく。まちと人を見つめ続けた半生〜

愛知県刈谷市

今回は沢田 佳代子さんに
お話を伺いました
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沢田 佳代子(さわだ かよこ)さん

あお喜 店主・刈谷駅前商店街振興組合 副理事/愛知県大府市出身。駅前商店街の理事長として5年間、地域活性化に尽力。飲食店経営のかたわら、約15年間にわたりまちづくり活動に関わり続ける。街を語るうえで「匂い」という感覚的な視点を大切にし、図書館や美術館など文化施設を通じて地域の空気感を感じ取ることをライフワークとしている。刈谷市の恵まれた環境と人々との交流を糧に、常に新しい挑戦や活動を続けている。刈谷市在住。

「街を歩けば、その空気や匂いが人を育てる」。そう話す沢田さんの言葉には、長年の探求心と観察眼がにじみます。


子どもの頃、祖父から聞いた戦争や土地の話、父や周囲の大人たちとの何気ないやり取り。それらは、料理や商い、そして街を見る視点の原点となりました。


初めて自分の人生を時系列で語りながら、自らの歩みを再確認した沢田さん。


やりたいことを恐れず形にし、時には人の評価や悪口さえも糧としてきたその姿勢は、刈谷という街と響き合いながら続いてきました。

この記事を通じて伝えたいのは、「自分の好奇心を信じて行動する」ということ。


街も人も、表面だけではわからない“匂い”のようなものがあり、それは現場に立ってこそ感じられるもの。あなた自身の探求心が、その匂いを嗅ぎ分けるきっかけになるかもしれません。

子ども時代の冒険心が育んだ、刈谷での原点と好奇心の記憶


お盆期間中の真っただ中。愛知県刈谷市。普段人通りの多い刈谷駅前付近はとても閑散としている。セミの鳴き声が響くうだる暑さの中、まちのネイティブな住民の一人を訪ねた。


「あお喜」という飲食店を営む沢田さん。幼少期の沢田さんが当時住んでいたところは隣町。駅から大分離れていてバスも一時間に1本しか通らない不便な場所だったという。


好奇心旺盛で、一人でふらっと出かけることも多かったという沢田さん。自転車で20分ほど走った先にある国有林(現在の大府市みどり公園)は、当時の彼女にとって最高の冒険フィールドだった。


画面奥中央が大府みどり公園。かつては国有林だった。
画面奥中央が大府みどり公園。かつては国有林だった。

「柵が張り巡らされていましたが、抜け穴から入り込んで、一人で探検していました。そこには池があって、食虫植物がたくさん生えていたんです。


今は公園になって立派になりましたけど、当時あったものがすべてなくなってしまったのは少し残念ですね。夏休みには一日中そこで過ごし、『恐竜が出てくるんじゃないか』なんて空想していました」(沢田さん)


祖父の言葉の矛盾が芽生えさせた、戦争への疑問と探究の原点


沢田さんの家には特別な環境があった。祖父は38歳という若さで小学校の校長となったが、戦後すぐに退職。そのおかげか、家にいる時間が長かったという。その後は本を読み、文章を書きながら暮らしていたという。


「家にはまるで図書室のように本がたくさんありました」(沢田さん)


その影響で、小学校時代も近所の子どもたちと遊ぶことはあったものの、ほとんどの時間を自然に手が伸びた本を読むことに費やしていた


そんな沢田さんが心に最も深く刻まれているのは小学校時代であり、祖父の存在だった。ある日、仏壇の引き出しを探っていると、終戦翌日に祖父が生徒たちの前で読み上げた原稿が出てきた。


そこには「日本は戦争に負けました。戦争は間違いでした。世界に謝罪しなければなりません」と書かれていたのを記憶しているという。


しかし、原稿を見つける二日前、祖父が「日本が勝つように頑張るべきだった」と語っていたのを沢田さんは覚えており、原稿の内容とは正反対の言葉を口にしている。その事実が、子ども心に強い印象を残した。


祖父の中に矛盾はなかったのだろうか。なぜ考えが変わったのかと思いました。直接尋ねたことはなかったんですが、その疑問は長く心に残り続けて。もしかすると、それが校長職を辞めた理由だったのかもしれないと」(沢田さん)


この出来事をきっかけに、沢田さんは「なぜ日本は戦争を始めたのか」「本当に戦争を起こさざるを得ない状況だったのか」を知りたくなり、本を読みあさるようになる。


「やがて時間をかけて、自分なりの答えにたどり着いたのが『経済封鎖という当時の状況』だったのかなと、戦後社会の急速な変化も肌で感じながら、そう思うようになりました」(沢田さん)


東京からの転校生との出会いが開いた、音楽と海外への憧れの扉


中学時代は、ごく普通の生活を送っていた沢田さんだったが、中学2年のときに転機が訪れる。東京からやってきた転校生と同じクラスになったのだ。


その生徒と話していると、頻繁にビートルズの話題が出てきた。「ビートルズは素敵だ」と熱心に語る転校生に、沢田氏は衝撃を受けたという。


「田舎の学校では、外国の音楽に興味を持つ子なんていませんでした。こんな世界があるのかと驚きました。転校生の話すべてが新鮮で驚きでした。当時は地方と東京の格差が、今よりずっと大きかったと思います」(沢田さん)


それ以来、ビートルズのレコードを買っては何度も繰り返し聴いた。音楽を通して初めて「外の世界」に触れた瞬間だった。


転校生は3年生になるとクラス替えで別れてしまうが、転校をきっかけに、沢田さんの関心は一気に海外へ。父に頼んで英語の本を買ってもらったり、図書館に通うなど、インプットの時間は続く。知りたいことは全部、本で調べるしかないのだと沢田さんは強調する。



能登半島の一人旅で出会った熱い議論が、沢田さんの言論活動の原点に


高校に進学した沢田さんは、読書の影響で日本文化の底流に東洋哲学があると考えるようになり、哲学書にも手を伸ばした。時代は学生運動が大きく盛り上がる真っただ中だった。


「それからして、19歳で初めての一人旅に出たんです。行き先は能登半島。宿泊先のユースホステルで、食後に何気なく見たテレビから流れてきたのは、学生運動のニュースだったんですね。


衝撃を受けつつ、その夜の『ミーティング』に参加した時の出来事が私にとって大きな事件でした」(沢田さん)


当時のユースホステルでは、夕食後に宿泊者同士が集まり、宿泊者同士の情報交換や交流を目的とした集まりがあった。


学生運動は是か非か、そして「これから日本はどうあるべきか」「我々が立ち上がらなければならない」。そんな熱を帯びた議論の言葉が印象に残っているという。


能登の夕日。輪島市門前町より
能登の夕日。輪島市門前町より

地元では決して話題に上らなかった政治や日本の将来、若者の役割。初めて同世代の仲間と真正面から語り合い、沢田さんは「議論って面白いものだな」と強く感じた。


その後、新聞の呼びかけコーナーを活用して共感者を募り、鉄筆で原稿を削って印刷する謄写版*1を購入して、届いた原稿をガリガリと刻んでは刷り上げ、発送するなど、同人誌作りを一年間続けた。


*1 孔版印刷の一種で、日本では一般的に「ガリ版」とも呼ばれる印刷方法。ロウを塗った原紙に鉄筆で文字や絵を書き、その部分にインクを染み込ませて印刷。簡易で安価な印刷方法として、かつては学校やオフィスで広く使われた。

幼少期の料理体験と家族の歴史観が飲食店開業への道を後押し


そして21歳の時に刈谷へやってきた沢田さん。そのきっかけは、おばから紹介された現在の土地、そう、今の「あお喜」の場所だった。結婚を機に移り住み、しばらくは子育てに専念していたが、35歳のとき「何かやりたい」という思いがふくらみ、飲食店を始めることを決意する。


「開店日は12月8日。この日付を父に伝えると、『それはいい幸先だ』と返ってきたんです。理由を尋ねると、真珠湾攻撃の日だからと。戦争を経験した父と、戦争で校長職と土地を失った祖父と二人はまったく異なる歴史観を持っていたんですが、父はその日を前向きに捉えていたんです」(沢田さん)


飲食の道を選んだ背景には、子どもの頃からの原体験がある。父は小学校教員で、当時の駅周辺には居酒屋が数軒しかなく、同僚を家に招くこともしばしばだった。


そんな中、小学2年生の沢田さんは、近所で摘んだツクシや山菜を天ぷらにしたり、川で釣ったフナをさばいて煮たりしては、父やその同僚にふるまっていた。「うまい!」と褒められるたびに胸が高鳴り、料理への情熱は自然と深まっていった。


「周囲は先生ばかりで褒め上手で。『これ、どうやって作ったの?おいしいね!』と声をかけられるたび、その気になって。そんな小さな体験が積み重なって、人を喜ばせるためにこの道へ進んできたんです」(沢田さん)



巨額の借入と家族の言葉を胸に挑んだ飲食店開業と成功の軌跡


35歳で料理の道で大きなスタートを切る。大きな決断と覚悟が必要だった。自宅を改装して店を開くため、借り入れた額は2,500万円。当時の金額を今に置き換えれば、1億円近い規模になる。


「その話を聞いた小学1年生の娘からは、こんな言葉が返ってきて。『失敗して借金を抱えても、一緒に衣浦大橋から飛び込みたくない』と。子どもらしい率直さを感じながらも、その一言が胸に響いています」(沢田さん)


夫や周囲が止める暇もないほど、計画はすぐに動き出した。翌週には工事が始まり、予定通り12月8日に開店。この日は、父が言うあの忘れられない日でもあった。


開店から半年後、運は思わぬ形で味方する。隣にパチンコ店がオープンし、昼時には大勢のお客が流れ込んできた。当時の店名も現在と同じ「あお喜」。ランチはカレーライスとうどんのセットなど、当時としては少し変わったメニューを揃え、大衆的で親しみやすい内容にした。


「おかげで2,500万円の借入金は約10年で完済して、その後も店舗改装などのために再び借り入れを行ってきましたが、滞りなく返済できた。本当に恵まれていたと思います」(沢田さん)


自分らしさを貫くための二つのモットーと、時代に左右されない店づくりの姿勢


35歳で開業して以来、沢田さんは一度も「やめよう」と思ったことがないという。日々の関心は、「明日のランチは何にしよう?」というように、ただ目の前のことの営みに集中してきた


店を営む上で大切にしてきた2つのモットーがあるんです。ひとつは『お客様のニーズには答えない』。求められるものに合わせ続ければ終わりがないからこそ、自分がやりたいことをやって、それに共感してくれるお客様が来てくれればそれでいいんです」(沢田さん)



「もうひとつは「悪口も評判のうち」。関心がなければ悪口すら出ないじゃないですか。賛否を含めて、それも評価の一部だと捉えているんです」(沢田さん)


商店街活動でも賛否両論はあったが前向きに考えた。口コミやSNSがまだ発達していなかった時代だからこそ、余計な雑音も少なく、思うままに行動できたのかもしれない。


賛否を恐れず信念を貫き続けた二つの経営モットーとする言葉とは


また、35歳を過ぎた頃から、沢田さんは一つの決意を胸に抱くようになった。それは「反省しない」こと。もちろん、法を犯すようなことはしない。それ以外なら、必要以上に振り返らない。自分で責任を取り、成果や実績を残せばそれでいい


「商店街活動でもその姿勢は貫きました。組合に借金を背負わせることは一度もなく、予算の確保はまちづくりのキーパーソンであり、かつてお世話になった人たちが手を差し伸べてくれました。その支えのおかげで、多くのワークショップを開催することができ共感を得ました」(沢田さん)


そして今もこれからも「あお喜」は変わらず続いていく。これからの生き方を問われると、沢田さんは少し考えてから笑った。


「この年齢になると、やっぱり体力が続くかどうかが大きいですね。何をするかより、どう続けられるか。そんな中でも、変わらず続けたいことがあるんです。ひとつは油絵で、30年近く描き続けてきた趣味なんです」(沢田さん)



「これからも自分が描きたいものを描いていきたいですね。そしてもうひとつは本。死ぬまでに、できるだけたくさんの本を読みたいんです」(沢田さん)


沢田さんの目は、過去でも未来でもなく、今この瞬間の楽しみに向かっているようだった。読書好きの沢田さん。旅先でも必ず訪れていた図書館から地域を知ることができるのだと語る。


「地域史を読むためというより、その場所に入り、空気を感じるんです。並ぶ本棚やそこで過ごす人々の姿、たとえ居眠りをしている人がいても、その雰囲気からまちの温度が伝わってくる気がします」(沢田さん)


そうして各地の図書館を歩くうちに、沢田さんの中で芽生えた問いがある。それは数字や統計では測れない「まちの力」とは何か、ということだ。



SNSでは伝わらない、店とまちを包む“記憶に残る匂い”で分かるもの


インターネットやSNSが普及し、街や店のことを誰もが手軽に発信できる時代になった。沢田さんも日々、店や日常の出来事を投稿している。それでも、一つだけどうしても伝えられないものがあるという。


「匂いです。空気は匂いなんですよね。初めて店を訪れた人が必ず口にするのは『いい匂い』です。ドアを開けた瞬間に広がるのは、醤油とみりんを煮立てる香り、酒や野菜の香り、味噌の香り。


それらが混ざり合い、店独特の空気を形づくるんです。この匂いは必ず記憶に残ります。どんなにSNSが発達しても、匂いだけは伝えられないんです」(沢田さん)


花のようないい匂いじゃなくても、まちが醸し出す匂いが、子どもを育て、大人に居心地の良さを与える。このまちは、どんな匂いを持っているんだろうか。


「写真でも、文章でも表現しきれない匂いは漂うものなんです。実際に行ってみなければ感じられない匂いが」(沢田さん)

沢田さんはそう言って、静かに微笑んだ。



結び-Ending-

SNSや写真では伝えきれない感覚が、このまちにはまだあります。直近で訪れた場所の匂いを、あなたは覚えていますか?


さて、今回の取材で最も印象的だったのは、沢田さんが「こんなふうに時系列で話したことはない」と口にされた瞬間でした。


日常では、歌や出来事をきっかけに「あの頃はこうだったね」と断片的に語ることはあっても、人生を初めから順に振り返る機会はなかったといいます。だからこそ、この1時間の対話は、ご自身の歩みを再確認する時間になったようでした。


子ども時代から料理に親しみ、35歳で店を開き、商店街活動にも関わりながら走り続けてきた日々。その根底には、やりたいことを迷わず実行し、困難も前向きに受け止める強さがありました。


そして話題は「まちの匂い」へ。SNSで何でも発信できる時代でも、匂いだけは伝えられないまちや人の本質を表すその感覚は、沢田さんの人生観にも重なります。


順を追って語られた物語から、刈谷という土地とそこに生きる人々の空気まで、確かに感じ取ることができました。

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■企画・著作
中野 隆行(Nakano Takayuki)
地域での写真活動を機に
地域の人たちの価値観に触れたことがきっかけで
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【取材データ】
2025年8月13日 
【監修・取材協力】
沢田 佳代子様

取材にご協力いただきました関係各諸機関のほか、関係各位に厚く御礼申し上げます。本誌の無断転載を禁じます。

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