-まちの取組-
今回は南三陸町の
お話をお届けします
わたしたちを含めた発信者が、より多くの人の心に届けたい
〜あの日の出来事を「忘れない、忘れさせない」ために〜
宮城県南三陸町
2011年3月11日14時46分 、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災) が起こり、沿岸部に押し寄せた津波は、甚大な被害をもたらしました。今年で11年目となる「3.11」のその日に、追悼及びこれからの未来の防災のために活動されている方がたくさんいらっしゃいます。
本記事では、NPO法人フェローズ・ウィル主催のオンライン追悼イベントへ参加した時の様子をお届け。筆者は恐縮ながら、東日本大震災が起こった当時何もできなかったことを思い出します。オンラインではありますが追悼イベントに参加するのは初めてで、とても貴重な機会をいただきました。
宮城県にて当時の震災を体験した現地の方から、地震で倒壊した自宅の様子を伺ったり、津波が押し寄せた時の状況などのお話を聞くことができ、命の尊さや、未来のまちの在り方など、私たちの「今」につながることをたくさん感じる時間となりました。
今回のイベントを通して東日本大震災への理解が深まり、日々の自分の行動から変えていこうと思いました。この記事を通して、今ある命の大切さ、時間の尊さ、これからの未来に向けて、新たな発見があれば嬉しく思います。
紙芝居で始まった復興への想いが、全国からボランティアが集まりまちを未来の災害から守る「椿物語復興」へ
当日お話をしてくださったのは、宮城県南三陸町の上山八幡宮(かみのやまはちまんぐう)禰宜の工藤真弓さん。
工藤 真弓(くどう まゆみ)さん:上山八幡宮禰宜・「山さ、ございん」プロジェクト実行委員・一般社団法人復興みなさん会役員/宮城県南三陸町志津川出身。東日本大震災で生き残った自分であるからこそ伝えられるものがあると思い、災害の恐ろしさやいざという時のこと、これからのまちの在り方について発信する活動を行なっている。
工藤さんが東日本大震災を乗り越えて感じたことは、大きく二つあるそうです。一つは「生き抜いた自分の命を大切にすること」。もう一つは「災害の恐ろしさ・身を守る方法をこれからの世代に伝えていくこと」です。
「災害の恐ろしさと身を守る方法、命を大切にする方法」を未来を生きる子どもたちに分かりやすく伝える方法を考えている時、一人のおばあさんから「震災を乗り越えた椿のたくましさ」の話を聞き、そこから「椿物語」を生み出しました。
「椿物語」を5歳の子どもにも分かりやすく教訓として伝わるように、得意であった絵を描くことを活かし、紙芝居という形を選択しました。
工藤さんが「椿物語」の紙芝居をしている様子
東日本大震災を、子どもにも分かりやすいように「ナマズのくしゃみ」に例えて始まる「椿物語」。その内容を参加者の私たちにも読み聞かせていただきました。
大きな津波に飲まれてしまい、海水を飲んで山の木が枯れてしまった中、唯一生き残っていたのが椿の木。慌てずゆっくり根を伸ばした椿の木は、津波に耐えるだけではなく、春には花を咲かせていたのです。
津波が来たからこそ気づいた椿のたくましさ。それを知り、次の何かが起きる前に椿の木を植えたいと思う一人のおばあさんがいました。そのおばあさんの気持ちを知り、工藤さんが始めたのが椿の避難路づくり。子どもは種を拾い、大人が育てていく。
物語の中では、丈夫で硬い椿の種を早く芽吹かせるコツも分かりやすく説明されており、いつかまた大きな津波が来た時に、椿の山へ逃げる目印となり、大人も子どもも町に来た人がを助ける避難路になることを伝えています。
また、紙芝居では椿の万能さについても紹介しています。種からは油が絞れ、中身をとった種は笛になります。花は天ぷらにして食べることができ、葉はお茶にすることもできます。花は川から海へ祈りとして流すことで、追悼にもなります。
町のシンボルとして椿を心の真ん中に置くこと、そして小さな種を未来に植えて、ここからみんなで始めていく工藤さんの「椿物語」を通したメッセージは、紙芝居にとどまることなく「椿物語復興」という具体的な復興支援としてスタートしていきました。
椿のたくましさに気づいたおばあさんの小さな一言から始まった「椿物語」。そしてそこから派生し、椿での復興を実現していく「椿物語復興」。
工藤さんを中心とした南三陸町の住民で避難路を作っていくだけではなく、これまで兵庫県加古川市の中学生や福岡の大学生も「椿物語復興」に関わっており、全国からさまざまな人が参加しています。
住民の「いつ町が復興するのだろう」という不安が、「椿物語復興」を通すことで「苗木が育つ頃には復興が進んでいる」という希望に変化しました。
椿の避難路は現在、山へ続く4ヶ所(苗木130本)に植樹されています。季節の移ろいと共に椿の美しさを感じながらも、津波が起こった時の災害の恐ろしさを忘れず、いざという時は迷わず逃げられるように、みんなに意識づけて学んで欲しいと工藤さんは伝えています。
目で見る東日本大震災の様子。津波から守られた歴史ある神宮と「瓦礫」と化した建物に想いを馳せる
前神主(工藤さんの父)が建てた波来(はらい)の碑
「椿物語」のあとは、工藤さんに上山八幡宮(工藤さんの自宅周辺)の映像を見せていただきながら、当時の地震や津波の状況を拝聴しました。
自宅は津波の影響で住めなくなってしまったため、震災から5年ぶりに仮設住宅から南三陸町に戻ってきた時に、一段上の土地に再建されたそうです。
また当時押し寄せた津波の高さはなんと16メートルで、ビルの高さでいうと4階程度の高さまで及んだそうです。町が波に飲み込まれてしまった中、波の影響を受けなかったのが、この上山八幡宮の参道を抜けた鳥居の中の神宮と梅の木でした。形を変えずに色づく紅梅は、唯一の「ふるさと」の景色を残してくれたと工藤さんは語ります。
お話の中で特に印象的だったのが、「瓦礫(がれき)」という言葉。津波が来たことにより、建物自体は残ったものの、瓦礫が流れ込んで工藤さんのご自宅は住めなくなってしまいました。
しかし最初から瓦礫というものは一つもなく、壁に使われていた木の板や釘の一本でさえ、津波が押し寄せる前は「家」や「店」などの形として私たちを守ってくれる建物の一部だったことを忘れてはいけません。流されてきた建物の破片を、恐ろしい津波によって瓦礫と呼んでしまう虚しさをより一層深く感じられた瞬間でした。
東日本大震災の津波にあった当時の工藤さんのご自宅
津波が押し寄せる中、家族と逃げ切ったあと、避難生活の中で工藤さんが気づかされたのは、今まで過ごしてきた当たり前の生活は、とても自由だったこと。
電気や水道・ガスもままならない生活を余儀なくされた避難生活の中で、今まで当たり前だと思っていた生活は、どこかの誰かが作ってくれていたものに支えられていたのです。
東日本大震災で不自由さを経験した工藤さんは、また同じように災害が起きた時に町全体が困らないように、自分たちから何かできるのではないかと考え、町の将来図を描くことを始めました。
バナナの皮から始める「バイオマス産業都市構想」で、自然と人の命のエネルギーが循環するまちづくり
災害が起きた時に、東日本大震災の時のような不自由さが起こらないように、工藤さんが考えた将来図は、命を循環させることでした。地震と津波がきて、建物がなくなってしまった中で気づいたこと。それは南三陸町は海・里・山・森がとても豊かであること。
豊かな自然のめぐりの中で、具体的に取り組めることを考えた時、まず家庭にあるまだ命が残っているもの(生ゴミ)を循環させ、命のめぐりを大事にすることで震災に強いまちづくりを行うバイオマス産業都市構想が生まれました。
バイオマス産業都市構想とは、家庭から出るバナナの皮(生ゴミ)を集めたものを、加工してエネルギーや液肥(えきひ)に変化させることです。
生ゴミをエネルギーに変える循環を生み出すことで、生ゴミを集める人、エネルギーに変換させる人、液肥を農地にまく仕事と産業を生み出していきます。
たった一つのバナナの皮(生ゴミ)が、エネルギーや液肥になり、おいしい農作物の栄養になり、みんなの体の元へめぐっていくのです。
工藤さんは、東日本大震災が起きてから、どんな小さなものでも命あるものを大切にしようと感じたそうです。だからこそ今まで捨てていたものを、次の命に活かしていく構想が生まれたのだと思います。
東日本大震災で多くの人が命を落とした中で工藤さんは「生き残ったからには自分の命だけではなく、今ある命をつなげていくことがこれからの未来につながる」と想いを共有します。
「椿物語」と同様に、5歳の子どもから家庭にも伝わるように、各幼稚園・保育園を回りながら紙芝居で伝える活動をされています。
工藤さんが気づいた命のつなげ方や生き方は、社会の問題そのものを解決に結びつける素敵なものであると言えるでしょう。
多くの人の価値観を変えた東日本大震災を風化させることなく未来へつなぐ
工藤さんのお話のあとは、本イベント主催のNPO法人フェローズ・ウィルの我妻さんにお話しいただきました。
我妻 慶里(わがつま けいり)さん:NPO法人フェローズ・ウィル 代表理事/宮城県出身。東日本大震災をきっかけにNPO法人を立ち上げ、南三陸町を中心に精力的に支援活動を行っている。
NPO法人フェローズ・ウィルは、2011年3月11日に東日本大震災が起こってから11年間、毎年追悼イベントを行っています。新型コロナウイルスの感染状況を踏まえ、今年はオンラインでの追悼イベントとなりました。
当初は現地で20名程度で行っていたそうですが、年々多くの人にこのイベントに参加していただけるようになり、同じ時間を共有できることが嬉しいと、我妻さんは語ります。
当たり前の生活が、当たり前でなくなる時が突然訪れる。だからこそ日頃から思いやりをもって悔いなく生きること、関わる命を守ることはとても大切です。東日本大震災をきっかけに多くの人の価値観や考え方が変わったと思います。
災禍を忘れることなく、忘れさせることなく、亡くなった方の追悼と未だ行方不明になっている方、復興の地で前を向いて歩みを進めようとしている人たち全ての想いを、フェローズ・ウィルの活動を通じてより多くの人へ分かち合っていきます。
災害が起こった時の教訓は「命を持って逃げること」備えておくべき大切な防災意識
イベントの終盤では、工藤さんへの質疑応答の時間が設けられ、参加していた小学生から次々に質問が寄せられました。震災の翌年に生まれた現在小学4年生の生徒たちへ、工藤さんの想いが伝えられました。
以下で、質疑応答の一部を抜粋してご紹介します。
小学生:東日本大震災が起きた時にとった行動や、気をつけたことはありますか?
工藤さん:何も持たずにまず逃げることです。地震が来てから津波が来るまで40〜50分と言われていたので、避難場所の公園から家が近い人が、薬や毛布などを取りに帰ったり、車を取りに戻ったりしました。
でも本当に津波がいつ来るかは分かりません。モノを取りに戻って津波の被害に遭う方もいました。だからまず災害が起こった時は、自分の命を持って逃げることです。
小学生:今何も持たずに逃げるとおっしゃっていたと思うのですが、もし持っていくなら何を持っていきますか?
工藤さん:まずは自分が持てる量の災害リュックやバッグがあると良いと思います。ただ、逃げる時に手元に食べ物があればお裾分けする分まで目一杯持っていくかもしれません。
皆ももし災害が起こった時は、もちろん命だけ持って逃げることが大事だけど、せっかくなのでいざという時に何を持っていくかを一つ決めておくことも防災につながるかもしれません。
東日本大震災を乗り越えて、四季折々の絵葉書から感じる南三陸町の変わることのない花や海の美しさ
オンライン追悼イベントの後、私の手元に届いた絵葉書は、とても美しい四季折々の南三陸町の景色でした。美しい景色は、東日本大震災を乗り越えて復興したからこその東北の姿です。
ここ最近は、日本の各地で中規模の地震が相次いでいるように感じます。だからこそ南三陸町の景色の中に見る東日本大震災の教訓は、他人事ではなく自分の身に起こることかもしれない。そう思いながら、改めて防災の意識を高めていくことが非常に大切だと感じました。
結び-Ending-
3.11が起こった時、関西にいた私にとってそれは遠い先の出来事のようにしか受け取れませんでした。だからこそ今回この追悼イベントに参加させていただき、工藤さんのお話や当時の被害状況を聞くことで、非常にリアルな東日本大震災を感じることができました。
「目の前の人が明日当たり前のように会えるとは限らない。人も椿も同じように、根っこを強くするのは、寒くて悲しくて辛い時でもある。」そうお話しされる工藤さんの言葉は、東日本大震災を経験されたからこそ胸に響くものがあります。
私も、これから同じように災害が起きた時の意識、そして日々生きる時間・命そのものを大切にしていきます。工藤さんのお話が、さらにこれからの子どもたちにつながりますように。私たちも共に発信していきます。
■企画・著作
田中 美沙稀(Tanaka Misaki)
兵庫県出身の社会人ライター。
「感動を多くの人に伝えたい」という想いで表現しています。
【取材データ】
2022.03.11 オンライン取材
【監修・取材協力】
・NPO法人フェローズ・ウィル
・工藤 真弓様
取材にご協力いただきました関係各諸機関のほか、関係各位に厚く御礼申し上げます。